オークハウス三鷹Village」カテゴリーアーカイブ

自然の摂理

分子工学の第一人者が言っていました。

「世界に部分はない」

言われてみると「部分」とは、ただ物事を構造的に捉えるために創りだされた形而上的な言葉であり、その意味では対義語であるところの「全体」もそうです。

例えば人体。

腕、脚、頭などの体の部位や、心臓、腎臓、肝臓などの内臓。

どれも人体の構成要素であり、全体としての体であるところの部分です。

しかしその部分は全て全体に内包されています。

つまり部分であると同時に全体でもあるのです。

もしくは私個人を例にとっても、人間としての私、男性としての私、調布市民としての私。

どんな部分を考えても、そこに存在している限り全のうちの一であり、同時にその全を説明するには一も必要不可欠になります。

分子工学的には恐らく、どんな部分にもそれを構成する要素があり、それら下部組織にとっての全である、ととるのがストレートな解釈だとは思いますが、哲学的にも捉えられる深みのある言葉です。

いつぞや流行ったスマ○プの歌よりもこちらの言葉の方が身に沁みます。

あくまでも個人的にですが。

自由を満喫する男たち

今度初めて合コンに行ってきます。

学生時代は渋谷で過ごしながらも何故か縁遠かった合コン。

一体どんなもんなのか、楽しみです。

最近、長く付き合っていた友人カップルが立て続けに2組破局して、その久しぶりにひとり身になった男衆のための合コンです。

全然譲る気はありませんけど。

静かで気のきく心根の優しい女性に出会えればなと期待しています。笑

今≒過去

写真に写るのはいつだって過去ばかりです。

私たちの目に映るのも過去。

今なんて瞬間は、そう感じるちょっと前にいつだって過ぎ去っている。

今の積み重ねが未来につながる。

よく聞くフレーズでその通りだと思うけど、「今」の認識がちょっと甘いことが多いと思うことがあります。

今は一瞬で過去になる。

その一瞬しかない今を本気で生きるてことは、実は非常に難しい。

並大抵の意志の力じゃ、今を生きてるなんてとてもじゃないけど口にできない。

日常の瞬間ひとつひとつが写真みたいにポーズになって、その間に次の瞬間にどうしようか考えられたら、きっともっと密度の濃い生き方ができる。

理想です。

そのまんまって尊い

この世に、変わらないものはありません。

故郷の街並み、天にも昇る恋心、流行の服とそれで着飾る自分のカタチ。

私たちの細胞も、一日経ったらほぼ全てが新しく入れ替わります。

友情というものも、変わるのでしょうか。

最近、大学時代の友人たちとの距離感がうまくつかめません。

大学の頃は、大人になっても当然絶えることなく続くと信じていた交友も、少しずつ途絶えていきます。

久しぶりに会って話していても、もうみんなとは同じ道を歩んでいないからでしょうか、昔のように楽しめません。

学生の頃と同じ関係ではなくなるのは当たり前ですが、私はみんなと同じように就職もしていませんし、会社という組織もよくわかりません。

その内輪ネタを披露して、互いにわかるわかる言い合っている友人たちを見ると、とても下らなく思えてしまうことすらあります。

私自身が友人たちと距離を置きたがっている所も多分にあるのでしょう。

けれどもこれは今のうちだけだともわかっています。

また何年か経てば、いい距離感で、会いたいと思えるようになるはずです。

環境も自分の内面も、日々刻々と変化していきます。

だからこそ変わらないものには価値がある。

あなたは変わらないね。

そう言われようと思います。

わたし

鏡を見つめると見慣れた顔が映ります。

何の気なしに見続けていると、どのくらい経ってからだろう、ふと自分が別人のように思えてくることがあります。

同じ格好をして、同じリズムで呼吸をし、どちらも自分を見てるはずなのに、そこにいるのが私以外の誰かだと気づいてしまう。

そんな時とても怖くなります。

それは鏡の中には別の世界があってとかいうSFとは違って、もっと現実的な哲学的な自意識の問題。

私はどうして私でなければならないのか。

もしかしたら私の意識は別にあって、私が見たり感じたりしているこの身体は他人のものなのではないか。

ただ信号として私の意識にあらゆる情報が伝わることで、私がこの身体の所有者だと思い込んでいるだけなのではないか。

そう考えると、私のこの身体に、意識が2つ以上あってはならない理由はないような気がしてきます。

私はこの身体をほぼ100%自分の思い通りに操っているような気でいますが、もしかしたら気づいていないだけで、自分が予期せぬ行動をとっているかもしれません。

例えば夢の中でとか。

鏡の中から私を見つめる私は、自分が自由になる夢という時間を、今か今かと待ちわびている、そう思うと怖い半面、少しわくわくします。

悶々

今の生活のリズムができて早一年。

これでいいのだろうかと悶々としながらも、日々の雑多な稼業に追われ、内面的充足を得るのを怠ってきた自分。

決断するにはそれなりに時間が必要なのだと言い訳してみても、そんな言い訳をしている者に決断の機会は永遠にやってこないのだと言う自分もあり、なんとなく太陽をまぶしく感じながら日々を生き存えている。

奮起することは最早ないのだろうか。

言い訳ばかりが天井知らずに積み上がっていく。

GW

今年のゴールデンウイークは、サービス業をしているにも関わらず、仕事もせずに飲み歩きました。

昼起きて、夕方に飲み始めて、朝帰る。

素晴らしく自堕落な愛おしい日々。

付き合ってくれた友人面々に感謝。

毎日ぴんと張り詰めて生きて、たるむときは何にもしない。

そんな時、嗚呼、素晴らしき哉人生、と思うのだな。

NEWバイク

先日、自転車が盗まれたことを書きました。

もうひとつのママチャリでの通勤はあまりに効率が悪いので、新しい自転車を買うことに。

あんまりお金もないので、アマゾンで一番安いロードバイクを購入しました。

それでも20000円の出費は痛いなぁ。

今度の自転車はきっちり保管しよう。

鍵は2つ付けよう。

届くまであと3日は頑張れママチャリ。

あれ?ない。

いつも通り、仕事終わりに駐輪所へ向かうと、自転車がありませんでした。

・・・盗まれました。

結構頑丈な鍵つけてたんだけどなぁ。

2年間連れ添った自転車で、愛着もありました。

初めて買ったクロスバイクで、新しいものを買っても手放さずに、ずっと手元に置いておこうと思っていたのに。

ショックです。

しばらくはオークハウスから借りているママチャリで移動することになるのかな。

効率悪いなぁ。

今後は鍵を2重につけます。

4月

気がつけば速いものでもう4月になろうとしています。

あれから1年。

決して胸を張れるものではありませんでした。

たくさんの人に心配と迷惑をかけ、いまだにかけ続けています。

ダメだ。

なんてダメなんだ。

とたまにくさります。

でも、3分くらいで立ち直ります。

これはいいことだと思おう。

ここ数年で、うだうだ悩む時間が減った。

あれは確か、村上春樹の『ノルウェイの森』かな。

『考えなければならないときに考えればいいんだ』

こんな言葉に出会ってから、時間の使い方がとても効率良くなりました。

これは決して人間的に冷たくてさびしい人になってしまったというわけではなく、元々物事を深刻に考えすぎる傾向にあった自分には、このぐらいがちょうどいいということです。

・・・ということでもうすぐ4月です。

今年はチャレンジしましょう。