こんにちは。週の後半を出張のため地元愛知で過ごし、昨日無事に流山に帰ってきたたまきです。7月は忙しくて2つしか記事を投稿できず、ごめんなさい。
前回の投稿で書評書くと約束しましたが、ハウスでの経験を私の読書体験と交えて伝えるスタイルがいちばん伝わるのかな、と思ったのでそうしようと思います。題材にする本は、私が最も敬愛する著者の一人、ブレイディみかこさんの最新刊、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」です。

著者のブレイディさんはイギリス在住で、彼女の中学生の息子さん(お父さんはイギリス人)が現地「元底辺校」で経験したエピソードが詰め込まれています。
中でも今回取り上げたいのは、本の中で息子さんが語り始めた「他人の靴を履くこと(to put oneself in someone’s shoes)」についてです。これは英語の表現で、「人の身になって考える」ということを、形やサイズの違う他人の靴を履いて歩くことにたとえています。ブレイディさんの中学生になる息子さんによると、「共感する」という意味にあたる英単語はsympathiseとempathiseの二つありますが、sympathiseの方は自然に湧き出てくる感情で、特に考えなくても出来る他人の気持ち。その一方empathiseは、感情として自然に湧き出てくるものではなくとも相手の気持ちを理解できる状態を指すところにsympathiseとの違いがあり、sympathiseより知的な作業と言えるんだとブレイディさんは指摘されています。
これを踏まえたうえで、果たして私がハウスの皆様の靴を履いて歩いたことがあるのか。いやそもそも、履こうとしたことがあるのかを考えさせられたある住人の方とのエピソードを紹介します。
その方実は今日退去されてしまったのですが、私の地元愛知に引っ越されるということで正直なところ、帰省した時に会える人が出来てラッキーくらいにしか感じていませんでした。でもその方ご自身はもう他の人みんなと一緒に時間を過ごすことはなくなってしまいます。私以外のハウスの住人の方々にしても、愛知に立ち寄る機会なんてあまりないことを考えるとやはり辛い別れであったわけです。
私の靴は、誰が履いてもぴったりでトラブルなく歩けるものなのかもしれません。だからわざわざ別の靴を試そうだなんて思わなかったのかもしれません。でもその方ご自身や他のハウスの住人の方が靴を持っていることすら自分は知らなかったのだと気づかされましたし、恐らく彼らの靴の窮屈さ、ブカブカさやそれで起こる靴擦れはやはり彼らの靴そのものを履いてみようとしないとわからないのです。履けなくてもいい。でも履こうとすることが大切なのかな、と思えたのは「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んでいたおかげです。
「またすぐ会えるだろう」くらいに考えていた私も、その方と生活を共にすることはなくなることや、気持ちを共有することも同じ空気で出来なくなることを実感した途端、自分の靴が少し窮屈に感じました次第です。
今日はこの辺で失礼します。皆様の日曜の夜が、素晴らしいものになることを祈っています。
たまき












