聞く、書く、話す、これらのどの能力も、読む能力を上回ることはない。このことはさまざまな著者により書かれていますが、読むというワークをここのところろくすっぽしていないせいか、ブログ再開を経て早くも「何を書けばよいのか」堂々巡りで考えています。もちろん私など考えたところで所詮馬鹿のそれですから、休むに似たりということはわざわざ言及しなくても明白であるかと思います。馬鹿であるならば考えるより手を動かした方がよっぽど生産的な時間を過ごせるのかもしれませんが、それでも書く作業をする以上は、読むという行為は避けては通れないのが実情なのでしょう。
唐突な話ですが、私が20代のうちに挑戦したことは「思ったよりも難しかった」と感じ、諦めてしまったことばかりです。(「挑戦」などという言葉に申し訳ない程度の量の努力しかしなかったことも、一応自覚はしております。)その結果、30歳を目前にして自分がいかに今まで忍耐力に欠け世の中をなめくさっていたかが如実にあぶり出されてきました。確かにどう足掻いたところで不正解にしかたどり着かない人生は辛かったですが、それでもひとりで生きていくだけの逞しさを身に着けることを10年も怠り、子供でいることに甘んじ続けてきた結果がもたらした今の自分に対峙すると、目を背けたくなるほどの醜態のせいでときどき生きているのが本当に恥ずかしくなります。
こういう考え方は自分の中にあってもいいのですが、自らの思想の主軸をなす柱として持ってしまうと、どうしても自助と適者生存を前面に押し出した新自由主義的な思想に傾きがちになります。私のように自分で自分を苦しめるのは勝手ですが、たとえば他人の人生にまでこういう思想を適用するのは言うまでもなく暴力的で忌避されるべきということは理解していますので、念のため付け加えさせていただきます。
私は休む時間、心温まる時間というのは人間である限り必要であると信じますが、そういった考え方を「努力しない言い訳」としてしか解釈しない癖は良くないですし、自分のそういう一面は律しなければいけないと思っています。必要とされないものは求められず、呼ばれず、愛されないという現実に私はよく直面しますが、それは自分がどこまでも独善的であることに端を発した(要するに自分のせいだった)ということは何年も前から明白だったはずです。そのことにやっと気づいた時の絶望感は筆舌に尽くしがたいものがありますが、周りに言わせれば今更至極当たり前のことに気づいた馬鹿が狼狽しギャーギャー騒いでいるだけで、その光景が滑稽だったのは想像に難くありません。ノルウェイの森の永沢が言うように、自分に同情するのは下劣な人間がすることなのかもしれませんが、私のように密かに他人に同情を求めたがるのはそれよりもっと下劣でないとできないのかな、と考えると、いくら自分が悪いということを分かっているとはいえ胸が締め付けられた気分になります。
どん詰まりになると最低の読後感しか提供できないのは書き手として失格なのかもしれません。でも陰鬱な地下とは対照的に、地上では陽気なクリスマスが数日後待っています。それに人生は信じられないくらい短いでしょうから、皆様は今読んだことはさっさと忘れて明るく生きるのがいちばん正しいのかもしれません。(そんなことを私にわざわざ忠告されるのは鬱陶しくてたまらないでしょうし、そもそも言われなくてもそうする人が大半かと思いますが…)
何をやっても、何を言っても不愉快なズレしか生み出せない哀しい人間ですが、最後に好きな本くらい紹介させてください。相変わらずブレイディみかこさんは大好きで、谷崎は細雪の読み途中です。

約束通りの最低の読後感だったでしょうか?なにはともあれ、誰にとってもいつものようなクリスマスにはならないことは今更言うまでもありませんが、これを読んでくださっている方皆が安全で楽しい時間を過ごせることを切に願っております。引き続き皆様ご自愛ください。

































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